横浜は1858年に開港し、様々な西洋文化が怒濤のごとくもたらされたわけだが、日本文化も欧米文化に大きな影響を与えた。英国日本駐在総領事に就任したラザフォード・オールコックは 「大君の都/The Capital of the Tycoon」を著し、ロンドン万博においても横浜から持ち帰った美術品を大きく取り上げた。そして日本は1867年、パリで行なわれた国際博覧会に初めて参加する事になる。これを契機に日本美術の愛好熱が欧米に一気に広がった。フィリップ・ビュルティが命名した”ジャポニズム”という潮流である。
パリでは「日本美術友の会/Les Amis de l’art japonais」が活動された記録があり、1892年に「華雪會」という会が誕生している。参加者には、パリで美術商を営んだ林忠正や萩原正倫、アール・ヌーヴォーを牽引したドイツ人美術商サミュエル・ビング、美術商アンリ・ヴェヴェル、美術評論家エドモン・ド・ゴンクール、「印象派の画家たち」を著したテオドール・デュレ、版画家であり美術愛好家であったシャルル・ジロのサインも記されており、この時の寄せ書きが1907年の夕食会の案内状に使われている。驚くべき事は、浮世絵、印象派、さらにアール・ヌーヴォーに関係した中心人物が名を連ねていることであろうか。
東京大学の前身となる大学南校でフランス語を学んだ林忠正は、1878年のパリ万博事業の政府代行業務を行なう起立工商会社の通訳として渡仏し、後に若井兼三郎とパリで独立した。1886年発行されたビジュアル誌[PARIS ILLUSTRE]において、当時流通していた浮世絵などを単なる日本趣味のアイテムではなく、日本の優れた美術品として紹介しパリで話題をさらった。これらの功績で1900年のパリ万博覧では日本事務局の事務官長を務め、フランス政府から「教育文化功労章1級」及び「レジオン・ドヌール3等章」を授かった。当時パリに集まった芸術家達に深く影響を与えた、サミュエル・ビングが発行した「芸術の日本/Le Japon artistique」や、エドモン・ド・ゴンクールが著した「歌麿」「北斎」は、林の助けなしでは刊行できなかったのではなかろうか。
林は1905年に帰国したが、[日本美術友の会/Les Amis de l’art japonais]は1942年まで活動され、年8回の夕食会を開いていた記録がある。林が命名したと想像できる「華雪會」の名は、現在では残されていないが、その功績は非常に高い。また当時の万博で、起立工商会社の社員であり帝室技芸員あった横浜焼の宮川香山は様々な賞を受賞し、輸出産業の主役として高い評価を得た。レストラン・カーディナルは、Le Cardinalとして、パリ、イタリエンヌ通りに現在もある。